キャッシュフローと FIRE
「キャッシュフローを作る」「FIRE を目指す」という言葉はよく見かけますが、中身は人によってかなり違います。定義から順に整理します。
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ストックとフローを分ける
お金の話には2種類あります。ある時点でいくら持っているか(ストック)と、一定の期間にいくら入って出ていくか(フロー)です。
| ストック(残高) | フロー(流れ) | |
|---|---|---|
| 個人 | 預金・投資資産・不動産 | 給与・配当・家賃収入・生活費 |
| 単位 | 「〜円」 | 「月〜円」「年〜円」 |
| たとえ | お風呂に溜まっているお湯の量 | 蛇口から出る量と、排水口から出ていく量 |
キャッシュフローは後者、つまり「期間あたりの現金の出入り」のことです。資産がいくらあるかではなく、毎月いくら入ってきて、いくら出ていくか、という見方です。
どちらか一方では判断できません
資産が1億円あっても、毎月の支出が収入を大きく上回っていれば減っていきます。逆に資産が少なくても、収入が支出を上回っていれば増えていきます。ストックとフローの両方を見る必要があります。働くことはキャッシュフローなのか
はい、給与は代表的なキャッシュフローです。しかも多くの人にとって、最大のものです。
ここで一歩踏み込むと、話が整理されます。金融の考え方では、「これから働いて稼ぐ力」そのものを資産とみなすことがあります。これを人的資本と呼びます。
毎月の給与は、この人的資本という資産から生まれるキャッシュフローだ、と読み替えられます。配当が株式から生まれるのと同じ構造です。
この見方をすると、20代の人は「金融資産は小さいが、人的資本という巨大な資産を持っている」ことになります。逆に、退職した人は人的資本がほぼゼロで、金融資産だけが残っている状態です。
人的資本は債券に似ているか、株式に似ているか
この問いが、配分を考えるうえで意外に効きます。
- 公務員や大企業の正社員のように、収入が安定していて景気の影響を受けにくい場合、人的資本は債券に近い性質を持ちます。すでに大きな「債券」を持っているとみなせるので、金融資産のほうは株式を多めにしても全体としては偏らない、という整理ができます。
- 自営業、歩合給、景気に敏感な業種の場合、人的資本は株式に近い性質を持ちます。収入と株価が同時に落ち込みやすいため、金融資産のほうは安定資産を厚めにする、という整理になります。
- 勤務先の株式を大きく持っている場合は、人的資本と金融資産が同じ会社に集中します。分散の観点からは最も避けたい形です。
理論としては明快ですが
この考え方は理屈としては整っていますが、実際にどれだけ厳密に運用するかは別です。「自分の収入は安定しているか」という問いを配分の材料に入れる、というくらいの使い方が現実的です。FIRE とは何を指しているのか
FIRE は Financial Independence, Retire Early(経済的自立と早期退職)の頭文字です。ただし、この2つは別のことなので、分けて考える必要があります。
- Financial Independence(経済的自立): 資産からのキャッシュフローで生活費を賄える状態。働くかどうかは別の話。
- Retire Early(早期退職): 実際に働くのをやめること。
前者は「働かなくても暮らせる選択肢がある」という状態で、後者は「その選択肢を実際に使う」ことです。多くの人が本当に欲しいのは前者のほうです。
よく言われる「年間生活費の25倍」という目安は、4%ルール(資産の4%ずつ取り崩す)の裏返しです。4%の逆数が25倍だからです。
25倍という数字の出どころ
これは米国のトリニティ・スタディという研究に由来します。30年間で資産が尽きなければ成功、という定義で、米国の株式・債券の歴史的データに基づいています。40代で退職して50年以上生きる場合を想定した数字ではありません。FIRE の種類
| 呼び方 | 中身 | 必要な資産の目安 |
|---|---|---|
| ファットFIRE | 現役時代と同水準か、それ以上の生活を資産だけで賄う | 生活費の25倍以上(生活費が大きいぶん総額も大きい) |
| リーンFIRE | 生活費を切り詰めて、必要最小限で早く到達する | 切り詰めた生活費の25倍 |
| サイドFIRE / バリスタFIRE | 資産からの収入だけでは足りない分を、軽い労働で補う | 不足分だけを賄えばよいので、少なくて済む |
| コーストFIRE | これ以上積み立てなくても、複利だけで退職時に目標額に届く状態。それまでは働き続ける | 若いうちに一定額を用意すれば足りる |
このうち、日本で現実的に検討されることが多いのは、後半の2つです。完全に働くのをやめるのではなく、労働からのキャッシュフローを一部残す形です。
なぜ「一部残す」ほうが強いのか
数字の上でも、この形には合理性があります。
- 必要な資産額が大きく下がります。年間生活費300万円を全額資産で賄うなら7,500万円必要ですが、100万円を労働で得るなら5,000万円で足ります。差は2,500万円です。
- 取り崩し開始直後に相場が下がっても、労働収入があれば取り崩しを減らせます。リターンの順序の影響を和らげられます。
- 社会とのつながり、生活のリズム、健康への影響といった、数字に表れない部分も維持しやすくなります。
- 人的資本を完全に捨てないので、状況が変わったときに戻る余地が残ります。
日本で FIRE を考えるときの固有の論点
海外の FIRE の議論をそのまま持ち込むと、いくつかずれが出ます。
- 公的年金があります。65歳以降は終身のキャッシュフローが加わるので、「資産だけで一生」ではなく「年金が始まるまでの橋渡し」と「その後の上乗せ」に分けて考えられます。必要額はかなり下がります。
- 退職すると健康保険の扱いが変わります。国民健康保険料は前年所得に応じて決まり、会社の折半もなくなります。国民年金保険料も自分で払います。この固定費を見落とすと計算が狂います。
- 年金は加入期間で決まります。早期に退職して厚生年金から抜けると、将来の年金額が下がります。目先の自由と引き換えに、終身収入が減ります。
- 4%ルールは税引前です。日本の課税口座では運用益に20.315%かかります。NISA を使える範囲には上限があります。
- 円で生活するのに外貨建て資産で賄うなら、為替の変動がそのまま生活費に効きます。
「25倍あれば大丈夫」とは言えません
上の要因はどれも必要額を押し上げる方向にも、押し下げる方向にも働きます。年金は下げ、税と保険料は上げます。自分の条件で計算し直す必要があります。キャッシュフローを「作る」という言い方について
高配当株や分配型のファンドで「キャッシュフローを作る」という表現をよく見かけます。ここには注意点があります。
分配金が出ると、そのぶん基準価額は下がります。分配は「増えた分」ではなく「一部を現金化したもの」です。同じことは、必要なときに必要な額だけ売却しても実現できます。
分配で受け取ることの価値
- 売る判断をしなくてよい。相場が悪いときに「今売りたくない」と迷わずに済む。
- 仕組みが単純なので、判断能力が落ちてからも維持しやすい。
- 定期的な入金が心理的な安心につながる。
注意すべきこと
- 課税口座では分配のたびに課税され、複利の繰り延べが効かなくなる。
- 高配当を基準に選ぶと業種が偏り、分散が犠牲になる。
- 毎月分配型には、元本を取り崩して出す分配(元本払戻金)が含まれることがある。これは増えていない。
- 積立期には、税を前払いしているのに近い状態になる。
ここでも、局面によって答えが変わります。積立期は再投資型のほうが税の繰り延べが効き、取り崩し期は判断を減らせることの価値が上がります。
まとめ
- キャッシュフローは「期間あたりの現金の出入り」。資産額(ストック)とは別の概念。
- 給与もキャッシュフロー。しかも人的資本という資産から生まれる、最大のもの。
- FIRE の本体は「経済的自立」であって「早期退職」ではない。前者だけを目指すこともできる。
- 「生活費の25倍」は米国の30年前提の研究由来。日本では年金・税・保険料・為替で条件が変わる。
- サイドFIRE やコーストFIRE のように労働を一部残す形は、必要額を下げ、リターンの順序の影響も和らげる。
- 分配金で「キャッシュフローを作る」ことには、局面によって合理性があるが、分配は増えた分ではない。
必要額の試算は、老後資金シミュレーターで行えます。退職年齢を早めに設定すると、取り崩し年数が延びて必要額がどう変わるかを確かめられます。
出典
- [1]Cooley, Hubbard & Walz, AAII Journal「Retirement Savings: Choosing a Withdrawal Rate That Is Sustainable(Trinity Study)」米国の歴史的データに基づく研究。日本の投資家にそのまま当てはまるものではない。
- [2]厚生労働省「2024(令和6)年財政検証結果」公的年金の長期見通し。複数の経済前提ケースごとの所得代替率を示す。